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 長命寺は、慶長12(1605)年(江戸時代初期)、本願寺第12世の教如上人によって若松城下日野町(上町)に建てられた本願寺輪番(寺役を順番に交替して務める出先機関)より興り、その後、寛文7(1667)年、院地狭隘(きょうあい=狭い)ため、保科正之(ほしなまさゆき)公の時代に、現在の場所へと移された。

 それまでは御坊と親しまれてきたが、幸甫(こうすけ)の代より長命寺と改め、輪番制(寺役持ち回りの制度)が廃止され、世襲の寺となる。本願寺直轄寺院であったため、定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い横線が走っており、これは長命寺が別院(掛所)であったことを表している。

 

 また、戊辰の役における会津若松の市街戦で最も激しい戦闘が繰り広げられたことでも有名である。145名の戦死した会津藩士が埋葬されており、彼らの死を弔う東軍墓地もある。土塀などに残された多くの鉄砲弾貫通の穴が戦火の激しさをまざまざと見せつけていたが、現在では耐久性を保つために、いくつかの弾痕を残してほとんど塞がれてしまっている。

  起死回生を狙う会津佐川兵団と新政府側の長州、大垣藩が衝突したのが長命寺である。その戦闘により長命寺は本堂含め建物すべてが焼失した。当時の面影を遺すものは、築地塀と親鸞聖人の御影のみである。

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